7世紀から9世紀の間は安南時代で、ベトナム人たちが中国の支配から解放されたいという欲求が強くなる一方、中国文化は相変わらず深く社会に浸透している。政治的独立の欲求から地域のリーダーたちがしばしば王朝を建立するが長く続かない。

43年にチュン姉妹の反乱の後、ベトナム北部は中国の直接統治のもとに入れられたが、3世紀になると中国の権力に対する蜂起が頻繁になる。544年から603年の間に、ハノイ地方の裁判官だった李賁によって建国された萬春王国が独立への最初の一歩を記す。北では。2世紀から中国が分裂していた。というおは、220年の東漢の崩壊よりもずっと以前から、実権は地方長官たちの手に握られており、彼らは内部抗争によって弱体化した宮廷に従う気などさらさらなかったのである。東漢、西漢が滅びるとすぐ、帝国は多くの王国に分裂し、そうした王朝はほんの何年かしか続かないものもあった。中国南部に君臨した王朝はいずれも紅河流域における権力を保持しようとしたが、その腐敗と軍資金目的の重税はベトナムの民の解放への望みを掻き立てた。

随(581—618)が中国を再統一し、ベトナム北部への影響力を堅固にした。随に続いた唐(618—907)がこの地方を安南と名付ける。この名は現実の反映というより祈りのようなもので、実際には状況はもっと混乱していた。この間つねに、多くの地方豪族が独立国を築こうとしている。

結局、10世紀になって、唐の没落と中国系支配者の追放をもって、千年に及ぶ中国支配が終る。中国文化がもたらしたものの重要さはこの期間において否定できない。が、ベトナム北部は広汎な商業交換ネットワークの中心に位置し、商業交換はますます頻繁になっていったので、外部の多くの影響を消化しながら独自のアイデンティティを養うことができたのである。