随(581-618年)という短い王朝は、589年に中国の再統一を達成し、国に持続的な安定をもたらした。これに続いた唐は大きな国土拡張期を経て755年に安禄山の乱により傾く。

随王朝

北周の将軍、楊暕(ようかん)は、北の領土を再征服しようと乗り出し、581年に随王朝を築く。589年に、南の王朝の軍を平定し、中国全土を統一する。随は強大な国家のベースを築くが、国家が強大となる頂点は次の唐王朝(618-907年)のもとでのことだ。漢の都だった長安と洛陽を、随の新しい都として選んだのは、漢帝国の栄光を復活させようという意志の現れである。平和な時代となり権力が中央に集中して、改革を行ったり、大事業をすることができるようになった。その大事業の例が、黄河の北部と揚子江の南部をつなげる大運河の造営であり、万里の長城の建設である。しかしながら、漢の時代の国境を快復しようと欲して、皇帝が戦争を始め、戦費が負債となって随の没落を引き起こす。

随はその短命さにもかかわらず、芸術の発展において大きな役割を果たし、続く時代の新しい様式の基礎を築いた。皇帝権力の正当性を強化するため、随の初期の皇帝たちは、それぞれの都に豪華な宮殿を造った。仏教の熱狂的な擁護者であった初代の文皇帝、楊堅(581-604)は、すべての地方に僧院を建立し、金箔を張った青銅や白檀の仏像、あるいは石仏を作るよう命令する。仏像は中国北部に栄えたいくつかの王朝のスタイルを継承しているが、金箔を貼った青銅の小像はよりリアルな表現へと新しい方向を示している。埋葬用の彫像、冥器は、初期には先行する王朝、北齊のものと類似を保っているが、随末期になると、服装が変わり、職人たちは、前の時代の多彩色を捨てて、わら色の透明な釉薬を好むようになる。

唐王朝

唐の時代(618-907年)はしばしば中国文明の黄金時代と呼ばれる。随が打ち立てた安定のおかげで、唐の指導者たちは国境を広げることができ、特に中央アジアにそれは広がり、中東と中国を結ぶ絹の道の安全性が高まった。首都、長安はこの当時、世界一の大都市となった。この都市はアジア全土から来る旅行者、芸術家、商人、僧を惹き付けた。ペルシャ人、アラビア人、インド人、トルコ人、ウイグル人が肩を並べ、思想や宗教(ネストリウス派、ゾロアスター教、マニ教、イスラム教)を伝え、異国の服装も紹介した。異国情緒をそそる模様を中国の貴族階級は競って取り入れた。それは朝鮮や日本にも伝わって行った。巡礼僧たちはインドから仏典を持ち帰る。有名な玄奘(げんじょう、602-664年)三蔵もその一人であるが、こうした僧たちのおかげで密教や禅など、宗教の流派が沢山生まれた。高宗の治世(649—683年)と妃で中国史上唯一の女帝となる武即天(ぶそくてん)の治世(690-704年)がおそらく唐の頂点であろう。しかしながら、中央アジアのタラス川の畔でイスラム教徒に負け、また安禄山(755年に燕建国)の乱が起こったことで帝国は大きく揺らぎ、貧困と度重なる飢饉を原因とする多くの農民一揆によりついに唐は滅びる。仏教の大迫害(842-845年)が、仏教を起源としていたさまざまな芸術表現を終りにする。僧院、仏像、布教に貢献していた崇拝対象などはすべて壊され、僧たちは還俗した。