周王朝は二期に分かれる。前半(紀元前1050-771年)では紀元前850年ごろに深い宗教的転換が起こっている。後半(紀元前771-256年)は周の王権が徐々に弱くなって行く。

西周王朝

紀元前11世紀半ばに周の時代になるが、商の時代と本質的な断絶はない。深い宗教的な転換が起こるのは紀元前850年ごろのことで、それは青銅の祭器の類型に現れている。以後、装飾に鳥と帯状の線が現れる。碑銘は長くなり考古学者にとって貴重な歴史・社会的情報源となる。最も大事にされた死者たちは、顔は特別な翡翠で出来たもので保護されており、豪華なペンダントを身につけている。占いに使った卜骨は、商文化においては特によく見られるが、次第に消えて行く。

東周王朝

紀元前771年に、中国の北西にあるステップから来た民族、犬戎(けんじゅう)が周を陕西省(せんせいしょう)から追い出す。周はより東の河南にある洛邑に引っ込まなければならなくなる。洛邑は現在の洛陽(らくよう、ルオヤン)で、そう呼ばれるようになったのはこの時代のことである。東周はたいへん弱体化し、権力を封臣たちに明け渡さなければならなくなった。

東周の時代は春秋時代と戦国時代の二期に大別される。春秋は山東省の魯(ろ)王国の年代記に由来する呼称で、紀元前770-481年をカバーしている。これに続くのが戦国時代(紀元前481-221年)で、実際には晋王国が分裂した紀元前453年に始まっている。中国は当時、競い合う多数の王国に分裂したが、最後には紀元前221年に強大で戦闘的な秦王国にすべてが吸収される。戦国時代の戦いのなかで、鉄製の武器と弩(おおゆみ)が登場し大きな役割を果たす。

この時代は、軍事的な競合にもかかわらず、文化的には豊かで、儒教の父、孔子(伝統的に紀元前551年に生まれ479年に没したとされる)や『荘子』の著者荘周が生まれており、儒教、道教など中国思想の基礎を築いた。