Cheval

Anonyme

Entre 25 et 220
Terre cuite, Moulage
Statue, Mingqi
Don manuel : Wahl, Eliane; Wahl, Philippe

M.C 2007-25

漢の時代の埋葬品に馬が多く含まれるのは、歴史的な経緯により説明される。中国人たちは長い間、モンゴル種の小さい馬しか知らなかった。万里の長城の南まで広がる広大な領土を占めていた遊牧民族、匈奴に抵抗しようとして漢武帝(即位紀元前140年-紀元後87年)は西に同盟を求めた。
漢の使節、張騫(ちょうけん)は長旅(紀元前139-126年および紀元後115年)を完遂し、匈奴の敵である烏孫(うそん)と関係を築いた。烏孫(うそん)はフェルガナ、今日のウズベキスタン、最北ではイリ盆地、最南ではバルハシ湖を占めていた。この赤ひげと青い目を持つ頑健な人々は、上品な俊足の馬を持っていた。西洋古代の文献では「カスピアン」と呼ばれ、中国人たちには「天馬」またおそらくそのサーモンピンクの毛並みから「汗血馬」と名付けられる。
紀元前121年、壊滅的な匈奴の来襲があり、長安からわずか120キロメートルのところまで迫ったとき、霍去病(かくきょへい)将軍に率いられた反撃が匈奴を斥けて遠く北方へ追いやり、河西地方を解放して中国人に直接中央アジアへのアクセスを作った。紀元前115年からすでに、西への行軍のなかでいくつもの県を作り出していた。甘粛省(かんしゅくしょう)の良渚(りょうしょ)もそのひとつである。紀元前108年からは、皇帝の決定により、厳密に言う中央アジアの植民地化が始まった。フェルガナは紀元前102年に李広利将軍に服し、毎年漢に皇帝の種馬牧場のための種馬を朝貢しなければならなくなった。しかも中国までたどり着くには多くの困難があった。騎兵隊の発達は、部分的には夷狄に倣ったものだが、馬の餌に必要なクローバーとウマゴヤシが気候に順化したことに助けられた。
駿馬は神の使いのように考えられ、天の恩寵のシンボルとなった。そしてこの理由で、埋葬品のなかに含まれるのである。
 

Reference(s) : ジル・ベガン,「チェルヌスキ美術館の活動」Arts Asiatiques (アジア芸術),2008年,63号 p.86-87。