Feuilles d'érable rouges
Papier, Encre, Couleurs - Pigments
Peinture
[san] 十六年冬陳樹人冩; 樹人六十以後之作
Don manuel : Guo, Youshou 郭有守, Docteur
M.C. 8722
紅葉:
款識 : 三十六年冬,陳樹人寫 (1947年)
印 : 樹人六十以後之作
陳 樹人(チェンシューレン)は高劍父 (カオチエンフー 1879-1951) 、高奇峰 (カオチーフォン 1889-1933)と並んで嶺南画派を代表する画家の一人である。 高劍父と同じく、陳樹人,は、19世紀末に広東で活躍した花鳥画の最重要画家、 居廉 (チューリェン 1828-1904)のもとで学んだ。 1904年に、すでに彼は帝制を攻撃する文を発表している。1905年には 孫中山(スンジョンシェン) (1866-1925)の 同盟會の運動に参加する。日本で工芸と絵画を学ぶため1906年に中国を離れ、1906年から1912年までと、1912年から1916年まで2回、滞在する。 日本画の実験と西洋画の技術に直面し、彼は高劍父に近づき、その新聞、「真相畫報」に書くようになる。彼の政治活動は、国民党での活躍に繋がって行く。 1917年から1922年に彼はカナダで国民党を代表した。中国に戻ると、広東の政界で重要な地位に就く。
彼の作品は政治活動の傍らで描かれた。キャリアに伴う旅行の間に、花鳥画を続けつつ、景勝地を描いた。1930年代には、中国と西洋で複数の展覧会に参加し、当時盛んだった多くの多くの絵画会で芸術論を闘わせた。晩年には彼の芸術論と若い芸術家の庇護者としての役割から1940年代の芸術界で独特の権威となった。
紅葉の花の構図は、陳樹人の特徴をよく表している。主題は、一見、伝統的だが、このモチーフを関心を持って研究していることがうかがわれる。葉と枝が絵の領域に自然に入り込んでいる。ページの中央で十字を作るように枝が絡み合う様は、彼の作品の多くに共通で、チェルヌスキ美術館所蔵の1947年の菊の絵もそうである。鮮やかな赤は、陳樹人はいくつかの主題にだけ使うようにしていた。そのうちのひとつは李偉銘(リーウェイミン)が研究しているが、1920年代から、一定して描いていたカポックの花である。陳樹人にとって、このモチーフは彼の生まれ故郷の広東と深く結びついていた。これも多くの作品に現れる紅葉の葉は、一羽だけの小鳥と共に描かれることが多い。 チェンデンシン は、小鳥のモチーフは、1932年に初めて描かれたときは、小鳥の弱さとそれを捉えて食べる野蛮な力を対立させた隠喩であったと述べている。陳樹人は、自分の息子、陳復 (チェンフー 1907-1932)が暗殺された事件を暗示しようとしたのである。暗殺は、広東地方を支配する軍閥の長,、陳濟棠 (チェンチータン 1890-1954)が企てたらしい。