Petits poussins
Papier, Encre
Peinture
白石翁; 星塘白武不出公卿
Don manuel : Guo, Youshou 郭有守, Docteur
M.C. 8726
斉白石(チーバイシー)は湖南省湘潭県の星斗塘の村の出身である。貧農の家に生まれ、少年時代から木工技術を学ぶ。この職人教育を通じて伝統的な装飾言語、とりわけ花について身に付けた。修行が終わると、彼は木工としての仕事をしながら、絵の教科書、『芥子園畫傳』の手本を元に独学で絵の勉強を始める。蕭薌陔に人物画の技術を学び1889年から人物画かとして立てるようになった。この同じ年、彼は胡沁園(?-1914)の弟子となり、工筆を習得する。 これらの技術が虫や花の絵で最も完成された表現を見る。斉白石は1895年から1920年代の北京に住んだ時期まで、これを描く。1902年から1909年には、たくさん旅をし、西安、北京、 桂林、広東などを訪ねた。この遍歴中に見た作品や会った著名人の影響で、絵画においては朱耷 (チューダー, 八大山人ともいう 1626-1705), 金農 (チンノン1687-1764), また 徐渭 (シューウェイ 1521-1593)を、篆刻においては趙 之謙 (チャオチーチエン1829-1884)を新しく範とするようになる。これらの影響は彼のスタイルの進化に貢献し、スタイルは次第に細密な書き方から解き放たれて行く。とはいえ、彼独自のスタイルが出現するのは、1917年に北京に落ち着き、陳衡恪(チェンホンクー)に出会ってからである。陳衡恪の文章にも影響されたが、おそらくは彼や陳半丁(チェンバンディン)や姚華(ヤオファー)などその傍にいた人々が呉昌碩(ウーチャンシャオ)の作品を重要性と認めていたことから、斉白石は、この上海派の巨匠の作品を範とするようになったのだろう。
斉白石みずから「中年における芸術改革」と呼んだものの終りに、彼は国民的芸術シーンに速やかに認められる。その構図のオリジナリティ、確かな筆力、色使いの大胆さがこの時代の作品を特徴づけている。 また、彼の芸術の直接的な素朴さは彼の絵画的世界のところどころユーモアのある田園的性格にマッチしていた。1949年の革命以後、彼は中国伝統絵画を代表する最も重要な画家と評価された。
チェルヌスキ美術館に郭有守(クーヨウショウ)によって寄贈された4枚の絵は、斉白石の熟年期の性格をよく備えた一揃いである。ナマズの横顔に見られるような朱耷の影響の跡を超えて、これらの作品は斉白石の絵画世界への完璧な導入となっている。四方八方に飛び出すひよこたち、スイカをつつく鳥、動いているところを一瞬で捉えられた動物たちは、ときとして象徴的な意味を持つ。鯰魚 (ニアニュー)の「鯰/ニアン」と鬼魚(ギュイユー)の「鬼/ギュ」は「長年大貴」の「年/ニアン」と「貴/ギュ」と音が同じになる。この金言を絵にするところから、斉白石独自の具体的なポエジーが生まれる。