Dalle gravée

Vers 700
Pierre, Gravé = incisé
Elément d'architecture
H. 154 x L. 54.5 x P. 10.8 cm
Don manuel : Beurdeley, Jean-Michel
M.C. 9945 a

この彫り込みのある平墓石と柱形は、唐(682-701年)の高官の棺の入っていた墓室の壁であろうと思われる。とはいえ、これらがみな同じ墓から来たものだと証明するものは何も無い。しかしながらこれらは、女帝武則天の裏切りで自殺に追い込まれた不運の王子、懿徳太子(いとくたいし)の名でも知られる李重潤(682-701)の墓の最奥の室で棺を置いた場所を作っていた平墓石と柱と非常によく似ている。この墓は、陝西省にある首都、長安からほど遠からぬ乾陵(乾県)に706年に造られたものだが、チェルヌスキ美術館の平墓石と良く似た作りをしている。
柱には上に板を支えるための縦の溝がついている。このような壁は、美術館で組み立てることができた。が、両面の装飾は、仕掛けがもう少し複雑だったことを教えている。MC9945の平墓石は、その表側に若い男性が描かれていて、それが、彫り込まれた唐草文の文様帯で囲まれている。裏側には、非常にすらりとしたシルエットの女性が描かれ、その大きさや彫り方によって密接に、2本の灌木に囲まれた、別の男と対を成している(MC.9945c)。
もう1枚ある板、MC9945bは、もっと簡単な仕上げで、ふくよかな女性が描かれている。こういう女性のタイプは、8世紀には大変流行し、745年から756年に宮廷にいた楊貴妃の名で有名な寵姫、楊玉環もこのタイプだっただろう。MC.9945aの背にある女性とは対照的で、時代がもっと新しいことを示している。
男性の召使いたちは、折り返しの大きな上着を着ている。このような服は、陝西省乾県の章懐太子(しょうかいたいし)の墓で発見された706年あるいは711年のものとされる冥器にあるものと同じである。膨らんだズボンは、同じく706年の懿徳太子(いとくたいし)の墓へのスロープの壁を飾る有名な壁画に同じものが認められる。
彫り絵のついた墓室の平墓石や墓の扉、また石棺は、唐の初期、755年の安禄山の乱以前に比較的数が多い。懿徳太子(いとくたいし)の墓室の他には、692年に死んだ韋洞(ウェイドン)の墓の墓室、章懐太子(しょうかいたいし)の墓の門、706年の永泰公主の石棺、ボストン美術館にある門そしてブリュッセルのジゼル・クロース・ギャラリーで1955年に公開された扉を紹介しておこう。
絵に描かれた唐草模様は、西安の孔廟に保存されている8世紀初めの石碑の彫刻部分に比較される。時代が下る9945bの平墓石を除いて、この驚くべき一連の作品の時代は8世紀初めのようだ。

Reference(s) : ジル・ベガン,「チェルヌスキ美術館の活動」Arts Asiatiques (アジア芸術),1998年 53号 p.89-92
『永遠の探求:中華人民共和国からの中国陶器の置物』ロサンジェルス,ロサンジェルス美術館,1987年,p.132 図65。
陝西省文物管理委員会 『長安県南里旺唐韋洞(ウェイドン)墓発掘報告』,文物,1959年,8,p.8-18。
『中国美術の宝』 (ブリュッセルの展覧会,パレ・デ・ボザール)1982,p.216 58番。
メアリー・トレージャー『中国美術』 ロンドン,テームズ&ハドソン,1991年,p.98。
ジーン・フォンテイン,ウー・タン『発掘された中国の過去』ボストン,ボストン美術館,1973年,p.154-157,図74.
オズワルド・シレン『5世紀から14世紀の中国彫刻』第3巻,パリ/ブリュッセル,国立美術・歴史書店G.Van Oest,1926年,p.40-41, 441.
『チェルヌスキ美術館,1993-2004の中国美術取得作品』Paris-Musées(パリミュゼ)/Findakly(フィンダクリ)刊, 2005, p.94,95,96,97。