Sentences parallèles

Yao, Hua 姚華, né en 1876, décédé en 1930

Entre 1920 et 1929
Papier, Encre
Calligraphie
H. 136.8 x l. 33.4 cm
俯仰之間已陳迹
Don manuel : Barrère, Jacques; Barrère, Marie-France
M.C. 2004-17

姚華(ヤオ フア)は、貴州省の貴陽に生まれた。官吏の道に進むべく、1904年に進士に合格。日本に送られ東京の法政大学で財政学を学ぶ。中国に戻り、官吏として務める。1911年に清が滅ぶと、主に教育に打ち込む。古都の複数の大学で文学と書を教えながら、一時、北京女子師範学校の校長を務めた。教職と平行して、姚華は詩から演劇、篆刻、書、そして絵画と様々な領域で活動する。 彼は二大戦間の北京の文学芸術界に認められる。友人に、画家で批評家の陳 衡 (チェンホン 1878-1926)や同じ篆刻派の王順 (ワンシュェン1888-1934)や陳半丁 (チェンバンディン1876-1970)がある。1926年に、彼は最初の心臓発作を起こし、左腕が麻痺する。にもかかわらず、「控臂姚華」と署名された作品のおびただしい数を考慮するならば、姚華の晩年は最も創作の豊かな時期であった。姚華は1930年、二度目の心臓発作で亡くなった。
子どものころから許 慎 (シューシェン 58-147)の『設文解字』に興味を持っていたことが、彼を中国文字の起源の研究に向わせたのだろう。古い文字への関心から、彼は印章文字に関心を集中した。そして貴州で評判の高かった印章書、莫 友芝(モーヨウチー 1811-1871)の作品を手本とした。北京の文化的空気が彼のスタイルを変え、首都に住む美術愛好家のコレクションにある青銅器や硬貨、土器の断片や石碑や墓碑を手本とするようになる。 彼自身、自分のコレクションを直接、手本にすることを自慢に思っていたようだ。秦の時代の篆刻への好みは、泰山刻石や琅邪台刻石のような有名な篆書を研究したことで確認できるが、陶磁器でできた計測器、キン ワーリャンのような、もっと有名でないものにも及び、 彼はこれについて評釈を書いている。篆文の対聯は、古いモデルに倣ったものだ。転写された文章は王羲之(ワンシーチー)と黄 庭堅(フアンティンチエン)から取っている。『蘭亭序』から抜粋した最初の文は、行書の手本とされる作品を篆文で書いた興味深い例となっている。

Reference(s) : ジル・ベガン(監修)『チェルヌスキ美術館,1993-2004の中国美術取得作品』Paris-Musées(パリミュゼ)/Findakly(フィンダクリ)刊, 2005, p.142-143
エリック・ルフェーヴル『中国絵画の6世紀,チェルヌスキ美術館修復作品』 パリミュゼ 2008年, p.118-119
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