交趾時代の芸術は北ベトナムにおける中国文化の強い影響が顕著で、高位の人物たちの墓に置かれた豊かな死者の家具類によって知られている。

交趾時代という名は、紀元前111年に漢の武帝が紅河流域のこの地域を征服したときに建設した郡の名称に由来する。この時が従来、ベトナムにおける中国文化の影響の始まりとされている。

しかしながら、中国文化の影響は、もっと段階的に進んだのである。中国は戦国時代(紀元前475-221)以来、政権転覆を数多く経験したので、王位を追われた貴人たちが南に逃げて行った。こうして、ベトナムの歴史上最初の王国である甌貉は、紀元前258年に北からの落人、安陽王によって築かれたのである。そして中国の最初の皇帝、秦の始皇帝がベトナム北部の豊かさに惹かれてこの地域を

征服しようと企て、将軍の一人、趙佗を送ったが、趙佗は紀元前208年に南越王国を築いてしまった。紀元前111年に、漢の武帝が秦の始皇帝の征服の夢を復活させ、地元の蜂起を利用して南越を従えたのである。

しかし、ドンソン文化出身の貴族階級は、趙佗の下にあっても交趾時代になっても、国の統治の要の役職を占め続けた。中国人は帝国から送られて来る役人だけで、歓迎しない空気と地理的な遠さのために、中国人の商人はまだ居着かなかったのである。こうして、この地域は紀元前後まで文化的に激しい変化を被らなかった。

しかし紀元34年に、 徵側(チュンチャク) 徵貳(チュンニ)姉妹が、増加する中国人移民に特権を剥奪された地元の貴族を連合して反乱を起こす。43年に反乱は暴力的に抑圧され、その時からこの地域は中国の直接統治下に置かれることになる。紀元1世紀後半から、煉瓦作りの墓に死者を埋葬する中国式がベトナム北部に広まる。

墓を中国式で築くことは地元の貴族階級にとって、自分のアイデンティティを諦めずに自分の社会的権勢を誇る新しい方法だった。こうして、長い時間をかけて多くの品々がドンソンと中国という二つの伝統を交じり合わせて行く。