La Falaise rouge

Kang, Youwei 康有為, né en 1858 à Canton, décédé en 1927 à Qingdao

Entre 1858 et 1927
Papier, Encre
Calligraphie
康[you]為; 康[you]為印; 維新百日, 出亡十六年, [san) 周大地, 游遍四洲, 經 [san) 十一國, 行六十萬里.
Don manuel : Lecomte, Georges

M.C. 8954

康有為(こうゆうい / カン ヨウウェイ)は、広東省南海の出身である。学海堂で教育を受けた後、1895年に科挙に合格。改革思想を形成し、その主な成果は、1891年に出版された、清の古典の公的解釈に疑義を挟んだ『新學偽經考』と1897年に出版された孔子について進歩的な新しい見方をした『孔子改制孝』である。1898年に、 皇帝に議会を開き立憲君主制を樹立するよう上奏した。 が、保守派の反動に遭い、国を去らなければならなくなる。おもに西洋を旅しながら1916年まで生きた。政治分野を超えて、康有為の思想は、その遺言的著作『大同書』が示すように、社会、哲学、宗教の領域を含む。
芸術の領域では、旅の間に西洋絵画と中国絵画の比較を行い、中国絵画の退廃という結論に至る。そこから、ラファエロと宋元時代の巨匠を崇拝する康有為は、西洋絵画の研究と宋の偉大な芸術を生んだ伝統に想を汲んで、 中国芸術の方向を変える必要性があるとした。 芸術におけるこのレアリズムの擁護は、徐悲鴻 (1895-1953)や劉海粟 (1896-1994)のように彼の教えを受け継いだ画家たちに多大な影響を与えた。
書の領域では、康有為は阮元 (リュアンユエン1764-1849)と 包世臣(バオシーチェン 1775-1855)がそれぞれの書論で打ち立てた碑学派の流れにある。 康有為はしたがって、王羲之(おうぎし/ワンシーチー)からの書の伝統から逸れて碑学派に向ったことになる。その書では、特に漢や北魏の時代の銘を参照している。康有為の大きな文字は、意図的に不器用な線だが、石門銘のような石の上の銘の研究に想を汲み記念碑のように大きい。書記の字体から派生した隷書は、崩した形として発達した。筆に墨を含ませ、髪のあちこちに飛沫を飛ばす。一方、いくつかの漢字は極端に乾いた表現だ。このコントラストが独特のやり方でエネルギーを表現している。
 

Reference(s) : ボボ 1985,  n°1; ベガン 2000, p.156-157