Nu debout

Chang, Yu 常玉, né en 1901 à Sichuan (province), décédé en 1966 à Paris

Entre 1930 et 1940
Papier, Crayon
Dessin
sceau dessiné "Yu"; Signature "sanyu"
Don manuel : Société des Amis du musée Cernuschi

M.C. 2010-6

常玉(サンユー)は、四川省の南充(ナンチャン)に生まれた。教養ある環境のなか、産業の近代化により富を築いた家庭の出である常玉は、早くから芸術的関心を西洋に向けた。1918年から1919年に日本に滞在した後、彼は1921年にヨーロッパに向う。同時代の林風眠(リンファオミェン)や徐悲鴻(シュベイホン)のように、常玉は一時、ベルリンに滞在した後、パリを選んで修行するが公的な養成機関には通わなかった。龐薰琹(パン シュンキン)による1920年代終りのグランド・ショーミエールのアカデミーについての記述を見ると、 常玉がどれほど学校に通わずアトリエに籠ったかが分かる。そこで彼は自分の墨のデッサンのほとんどを描き、パリで当時活躍していた中国人の若い芸術家のほとんどに影響を与えたに違いない。
1930年頃、前衛の形式的刷新を消化した常玉の作品は、パリの芸術家たちの世界と相互浸透する関係にあった。そのことは彼が1921年から1931年までの間、文学者で美術商でもあったアンリ=ピエール・ロシェ (1879-1959)と親しくしていたことから分かる。ロシェは、ピカビア (1879-1953)、デュシャン (1887-1968)、マン・レイ (1890-1976)などと近しかった。 1926-27年と1938年に短い中国帰国をし、ニューヨークに1948年から1950年まで滞在したが、パリが彼が1966年に亡くなるまで滞在した特別な街だった。
常玉が近代芸術の様々な傾向を受容したのは、パリの芸術シーンで支配的だった作家たちだけに限らなかったようだ。この骸骨のような裸体を描いたデッサンでは、顔がほとんどデスマスクのようで、ドイツ表現主義を思わせる。常玉は1920年代のはじめにベルリンに行ったときに見ていたのだろう。常玉がよくやっていたようにテーブルクロスの隅に描かれたこの人物の形は、面長の横顔を墨で描いた3つの作品と比較できるだろう。3つとも同じモデルを描いたものだろうが、 その媒体を比較すると、墨を使うことがどれほど常玉にとって自分のスタイルを主張するのに役立ち、龐薰琹(パン シュンキン)や張 萱(ちょう けん)など、パリで活躍した中国人芸術家を一世代に渡って影響したかが分かる。

Reference(s) : エリック・リフェーヴル, 『パリの中国人芸術家』 パリミュゼ, 2011
ISBN 978-2-7596-0175-2