ベトナム・コレクションは1800点を融資、最も古いものは紀元前5世紀に遡る2500年間をカバーしている。数多くの陶磁器といくつかの青銅器がそれに続く時代のものだ。絵画作品は20世紀のものである。

1800点を擁するベトナム・コレクションはチェルヌスキ美術館の所蔵品全体の10分の1強にあたる。数は少ないが、どの作品も考証が正確であることが中国コレクションや日本コレクションと一線を画している。このコレクションは、フランスがインドシナに東南アジア芸術へのアクセスを直接持っていた時代に、ベトナム現地で仕事をしていた考古学者や美術愛好家が美術商の介入無しに直に蒐集した、学識にもとづいたコレクションであることがわかる。

アンリ・チェルヌスキのアジア旅行から50年後、ジャポニスムの流行は過ぎ去り、美術館は徐々に古代中国美術に向うようになる。美術蒐集家たちの関心は、そこで新しい文化領域、特にベトナム北部に向った。その古代美術は、当時研究の中心だった中国美術との類似性により学界の関心を集めたのである。

そこで初代館長、アンリ・ダルデンヌ・ド・ティザクは1927年、100点以上に及ぶ石、青銅、また陶器作品を、ハノイに拠点を置く商社の社長でアマチュア考古学者でもあったヴィクトール・ドゥマンジュから購入する。これに1933年、二代目館長となったルネ・グルセの任期の始めに、匿名で寄せられたドンソン時代の作品約50点と1950年にベルギーの実業家クレマン・ユエのコレクションから10世紀から15世紀の陶磁器約20点を購入したものが加わる。1955年には、ルネ・グルセがまた、1920年代にインドシナの公共事業総監だったアルベール・プイヤンヌのコレクションから美しい三脚つきの器を買い入れる。

しかしなんといっても、チェルヌスキ美術館とベトナム美術の縁は、オロフ・ヤンセ(1892-1985)、ベトナム考古学を打ち立てたスウェーデン出身の考古学者を抜きにしては語れない。ヤンセは1934年にフランス極東学会に招かれて、1934年から1939年にかけて3回の発掘調査を指揮することになる。彼は現在のベトナムの北部、当時はフランス保護領であったトンキンとアンナンにある遺跡に集中して発掘を行った。フランス極東学会は1902年にハノイで設立され、発掘調査のための物資補給と発掘された物品の管理を監督した。

最初の二つの発掘は、1934年10月から1935年5月と1936年10月から1938年1月に行われ、パリ市の美術館、国立美術館および国民教育省も協同で資金援助した。発掘された作品は主に、フランスではチェルヌスキ美術館、ギメ美術館に、そしてハノイではルイ・フィノ美術館(現ベトナム国立歴史博物館)に配分された。

チェルヌスキ美術館のヤンセ所蔵品は、1500点以上にのぼり、その背景はオロフ・ヤンセによる発掘調査報告のおかげで詳細な資料がある。このコレクションはしたがって、考古学的由来を持つもので、美術商の評価基準による選択を経ていないところが他と違う。無傷で発掘されたものもあるし、大掛かりな修復を受けたものもあり、残りは土から出たときの破片の状態のままである。"

ベトナム先史時代(ドンソン文化)
ドンソン文化の影響は紅河流域から都市フエまで及ぶ。この地域には遺跡が見つかっており、紀元前500年から文化、言語、政治的統一があったことを物語っている。
交趾時代
交趾時代の芸術は北ベトナムにおける中国文化の強い影響が顕著で、高位の人物たちの墓に置かれた豊かな死者の家具類によって知られている。
安南時代
7世紀から9世紀の間は安南時代で、ベトナム人たちが中国の支配から解放されたいという欲求が強くなる一方、中国文化は相変わらず深く社会に浸透している。政治的独立の欲求から地域のリーダーたちがしばしば王朝を建立するが長く続かない。
大越時代
大越時代は強力な隣国、中国に対してベトナムが統治権を快復する時代である。宮廷芸術が花開き、商業が栄える。北ベトナムの人口増加が南に新しい領土を広げさせ、隣国チャンパーを吸収する。
近現代
ベトナム芸術は、19世紀末から、フランス人たちの影響を受ける。フランス人たちは、東洋の伝統と西洋の影響をないまぜにしたスタイルに向って制作を刺激し方向付けた。芸術・技芸学校が19世紀初めに創立され、多くのベトナム人芸術家が1930年代からフランスで展覧会をするようになる。そのなかには自分の芸術を発展させるためにフランスに住む者も現れた。