Danseuse Tang

Pang, Xunqin 庞薰琹, né en 1906 à Chine, décédé en 1985 à Chine

En 1945
Papier, Encre, Couleurs - Pigments
Peinture
龎薰琴; 虞山人; 龎
Don manuel : Guo, Youshou 郭有守, Docteur

M.C. 8675

款識 : 龎薰琴 (パン シュンチン)
捺印 : 虞山人 (朱文)
龐薰琹(パンシュンチン)は江蘇省の常熟(チャンシュー)に生まれた。 1925 年から1929年まで、彼はパリに滞在し、アカデミー・ジュリアンとグランド・ショーミエールを含むいくつかのアトリエで絵を学ぶ。中国に戻ると、上海に定住した。教授職と平行して、彼は倪贻德(ニーイードゥオ)創設し、 付磊(フーレイ)他10人ほどの若い画家たちと決闌社を結成する。決闌社の年毎の展覧会に出品された龐薰琹(パンシュンチン)の作品は、絵画の革新的な性格を表しており、彼のパリ滞在時に消化した西洋前衛の様々な傾向との親和性を示している。 1936年に、この芸術家は上海を離れ、日中戦争のために場所を移したいくつかの学校で教職に就いた。1938年からは、装飾芸術に関心を寄せ、貴州に派遣されて赴き、この地方の民俗のテキスタイルについて主に調査する。 1950年代の初めには、北京中央美術学院で教えた。彼はまた中央工芸美術学院の創設にも加わった。 1954年、彼の作品は東ヨーロッパで展示され、彼はソ連に旅行する。1957年以降、政治的批判の対象になり、龐薰琹(パンシュンチン)は公生活から離れ、1979年に名誉回復する。
 白描 (墨一色を用い筆線を主体として描く技法) で描かれた「古い衣装の踊り子たち」は、 戦争の後半、1942年から1946年の間の龐薰琹(パンシュンチン)の芸術の特徴を良く表している。回想録のなかで、彼は唐の踊り子たちの最初のデッサンは単なる練習のつもりで線の研究として企てたと書いている。この絵が好評だったので、 龐薰琹(パンシュンチン)はすぐに多くの数の作品を描いた。当時彼が直面していた経済的な不如意と切り離せないとはいえ、この作品群は疑いなく、パリ滞在が彼に残したダンスの印象を結晶化したものである。また、龐薰琹(パンシュンチン)にとっての線の重要性を反映している。彼は線は、影と光を示唆するのはもちろんだが、その変化によって、芸術家の感受性を表すと考えていた。
龐薰琹(パンシュンチン)は、この作品を郭有守(グー ヨウショウ)がヨーロッパに出発するとき、彼に贈った。巻物の標題を描いた紙に書かれた献辞には、この作品の来るべき旅路と作者の過去のフランス滞在に触れて、「西洋を20年の間研究した私が、習得したもののなかで、もっとも成功したのは白描だった。その理由は私が古画とも西洋画とも決別したためである。この作品を西洋に送るにあたって、私はこれがかの国々の教養ある人々に軽蔑されることなく見られると思う」。以前から蒐集家の目を龐薰琹(パンシュンチン)の作品に惹き付け、1941年には四川地方美術館に「地之子」を取得させたりしていた郭有守(グー ヨウショウ)は、この絵を1953年にチェルヌスキ美術館に寄贈した。

Reference(s) : ラルフ・クロワツィエ, 『近代中国における芸術と革命 : 嶺南画派 1906-1051』, バークレイ, ロサンジェルス, ロンドン, カリフォルニア大学出版部, 1988年

吴文雄 : 『丹青易旆, 百代标程 龐薰琹作品 (20世纪30-40年代) 』 常熟市美術館, 上海: 上海人民美術出版社, 2008.

龐濤. 「龐薰琹, 丘堤 早期作品解注」 in 『美術研究』, 2001年, p.25-38

龐薰琹,  『就是这样走过来的』, 北京, 三联书店出版社,1985年 ; 再版, 1988年, 2005年

エリック・ルフェーヴル『中国絵画の6世紀,チェルヌスキ美術館修復作品』 パリミュゼ 2008年