Bodhisattva Avalokiteśvara

Anonyme

Entre 386 et 534
Pierre
Statue
Don manuel : Glotz, Marguerite

M.C. 8773

北魏(386-534)の拓跋氏(たくばつし)は、398年に最初の都を平城(ピンチェン)に置く。山西省の北東にある、今日の大同(ダートン)である。仏教は「国教」と宣言されていたとはいえ、444年から449年の間は、道教を保護していた皇帝、太武帝(424-452)の命令で迫害されていた。
その後継者、文成帝(452-465)は仏教弾圧を廃止し、僧、曇曜(どんよう)の勧めで、弾圧の罪滅ぼしに460年から雲崗石窟の造営を始めた。石窟という建築構想はインド起源で、中央アジアを介して伝えられた。仏陀と菩薩、釈迦牟尼の一生、その前世の物語(ジャータカ)が、大乗仏教のイコノグラフィーの基礎となっている。「悟りを約束された」霊的存在(菩薩)のうち、未来の仏陀で、中国では弥勒下生経で知られている弥勒菩薩は特別な信仰の対象である。現宇宙の終るときに、この神は現象世界に降り立ち、四大州のうち南にある州、閻浮提(えんぶだい、ジャンブー・ドヴィーパ)を理想郷に変える。
伝統的に座った姿で描かれ、脚は垂らし、ここで見るように踵を組んでいることもある。このディテールにより、雲崗の菩薩のうちこの姿勢を取っているものはみな弥勒と考えられていた。これほど古い時代には、まだイコノグラフィーがあまり多様化していなかったという理由である。この仮説は今日では破棄されている。数多くの弥勒でない菩薩が座ってこれと同じ姿勢をしている。
雲崗石窟の最初の彫刻類は、西方の強い影響を示している。ここで見るように、土台部分のシュロの葉模様の並びや濡れたように体に密着した、たっぷりした襞の衣服などがそれだ。

Reference(s) : ジル・ベガン,『チェルヌスキ美術館のアジア芸術』, パリ,Paris-Musées(パリミュゼ)/Findakly(フィンダクリ)刊, 2000年, p.92-93。