ベトナム芸術は、19世紀末から、フランス人たちの影響を受ける。フランス人たちは、東洋の伝統と西洋の影響をないまぜにしたスタイルに向って制作を刺激し方向付けた。芸術・技芸学校が19世紀初めに創立され、多くのベトナム人芸術家が1930年代からフランスで展覧会をするようになる。そのなかには自分の芸術を発展させるためにフランスに住む者も現れた。

19世紀には宮廷にフランス人の数がどんどん増えて行った。フランス人たちの経営や軍事における近代的な技術は阮朝の支配者たちを魅了したが、フランス人たちが17世紀以来、促進したカトリック教の発展は儒教システムにとって驚異と受け取られた。そのような中、キリスト教徒抑圧、武装したフランス人の侵入が1858年以降、国を揺るがす。1887年にはフランス支配がインドシナ半島に成立する。ベトナムは南部は植民地コーチシナ、中央と北部は保護領アンナンとトンキンとなり、保護領では阮の皇帝たちが維持されたが、フランス人の密接なコントロール下に置かれた。

20世紀の前半は、何人もの政治的リーダーが独立の夢を育むと平行してマルクス主義が浸透して行った。

芸術の領域では、フランス支配の時代は、芸術家と工芸作家を育てる専門高等学校のネットワークが敷かれた。20世紀初めに設立された最初の学校は工芸に方向を定めたものだった。北部ではハノイ職業学校が1902年に、二つのセクションを提供している。一つ目は高級家具・指物細工、彫金細工、鋳造、機械、電気に関わる職業人を養成した。二つ目は、彫刻、刺繍、金銀細工と陶芸を教えた。南部ではサイゴンから遠くないところに、トゥーザウモット学校が1901年に創られ、高級家具・指物細工師を養成し、ビエンホア学校が1903年に創立され、陶芸を専門とした。

当時、フランス人統治者の頭には偏見があり、ベトナム人に芸術家の資格を認めなかった。工芸、模倣芸術であって創造でないものだけがベトナム人にも手の届くものとされた。1913年になってようやくより専門的に芸術をめざすコースが敷かれた。サーディンの学校はパリ美術学校を卒業したアンドレ・ジョワイユーの後押しで創られ、彼は初代校長となった。創立と同時に、この学校は、その地方にあった3つの応用芸術学校の一つで専門教育を受ける前の準備クラスの役を果たした。一年目にはデッサンに基づく基礎一般教育を受け、学生はそれを終えると専門コースを選んで6年間勉強する。ザーディンは、装飾芸術、彫版画、石版画、ビエンホアは陶芸と鋳造、トゥーザウモットは木彫、象眼、マルケトリー、漆工芸。

北部では、画家のヴィクトール・タルデュー(1907-1937)が、画家のナム・ソンと協同して1925年にハノイに、インドシナ美術学校を創設する。パリ美術学校をモデルに敷き移した教育は、西洋美術とインドシナの伝統を総合して、近代的だが本物の現地精神の刻まれた新しい様式を生み出すことを目的としていた。

植民地時代とそのインドシナ芸術に戦争の時代の芸術が続いた。1940年、日本人がベトナムに侵入する。1945年9月2日、日本の降伏の後、ホー・チー・ミンはベトナム民主共和国の独立を宣言する。しかしフランスが1945年10月からインドシナに再び足を踏み入れる。1946年12月から1954年夏まで、インドシナ戦争が国を引き裂く。フランスの降伏後、国は二つに分裂する。北には共産主義政権(ベトナム民主共和国)、南には民族主義政権(ベトナム共和国)。北では、ベトナム民主共和国が、ソ連と中国のような社会主義リアリズムとプロパガンダ芸術を美学として押し付けた。かつてはベトナム芸術シーンの前衛だったハノイでは、検閲を大々的に組織される。裸体をテーマとしたもの、抽象、シュルレアリズムは禁止され、肖像画、静物画、絵画的な室内は警戒された。

南では、1954年から1975年の間、ベトナム共和国が同時代のハノイが被ったような抑圧は受けなかった。この時代に、西洋のスタイルに強く影響された様式、抽象やキュービズム、シュルレアリズムと親近性のある様式が比較的独立していて開放的だったサイゴンでは芸術的探求の中心にあった。

ベトナム戦争は1959年から1975年まで続いた。1965年に、アメリカは南ベトナム政府救援のため軍を送った。南ベトナム政府は共産軍に負けたのである。多くのベトナム人が何回もに分かれて国から避難した。1976年7月2日、ベトナムはとうとう再び統一され、ベトナム社会主義共和国となり、ハノイに首都を定めた。

1980年代はドイモイ(新生)政策をもって社会主義レアリズムの教条主義が終りを告げる。芸術家たちは反動で注文作品を拒否するようになり、それぞれの探求に熱狂的に突き進んだため、主流が見定められないほどであった。彼らは一度に西洋美術をピカソからウォーホールまで需要し、大幅な遅れをもってリアリズム、シュルレアリズム、表現主義、ポップ・アート、ミニマリズムを消化した。政治的な主題とプロパガンダにうんざりした彼らは、かつて禁止されていたテーマである裸体、自画像、都市風景、少数民族などを取り上げ、より個人的で普遍的な価値を謳った。この「新生(ドイモイ)絵画」がベトナムを国際芸術シーンに突入させたのである。展覧会が外国で組織され、外国の蒐集家たちがベトナムに殺到し、1990年代、ハノイ、ユエ、ホーチーミン・シティには画廊が花盛りになる。多くの芸術家は独立していて、つつましくはあれ画業で生計が成り立つ者もあった。

1990 年代の終りに、最初の熱狂は絵画の凋落に場所を譲る。画廊は、現地に鑑識眼のある顧客がなかったために土産物屋に変わってしまう。今日では、ベトナム国家が独立系の創造を助成しないため、現代ベトナム芸術は世界的な潮流が決める規範に従うものとなっている。