大越時代は強力な隣国、中国に対してベトナムが統治権を快復する時代である。宮廷芸術が花開き、商業が栄える。北ベトナムの人口増加が南に新しい領土を広げさせ、隣国チャンパーを吸収する。

907年、中国の王朝、唐の没落は、まだ胎動したばかりだったベトナム国民にとうとう独立国の形を与えた。時の政治的混乱を利用して、10世紀を通じて複数の地域リーダーたちが次々に立ち上がり、短命に終わる王朝を築く。939年に大瞿越(ダイクエツ)王国が築かれた。1009年まで吳(ゴ)、丁(ディン) 、黎(レ)の三つの王朝がハノイから80キロのところにあるホアラーに都を置く。

李朝(1010-1225)と陳朝(1225-1400)はベトナムの歴史上最も輝かしい王朝とされている。都は現在のハノイにあたる昇龍(タンロン)に定められ、王国の名は大越となった。仏教は国教となった。学校が栄え、国家試験が発達した。道路網が改善され、紅河の築堤も行われた。海上でも陸上でも貿易が飛躍的に発展した。

政治的には、北では李氏と陳氏が度重なる中国の襲撃を退けていた。陳氏はモンゴル帝国(元)の来襲に1257年、1284年、1288年と3回に渡って抵抗したことで有名である。平行して、南の前線では10世紀の後期黎朝が始めた南進を続行した。

こうして、現在のベトナムの中止にあったチャンパ王国がゆっくりと大越に吸収されていき、やがて南の境界、クメール帝国がそれに続く。メコン平野は最終的に17世紀に大越に入る。

しかしながら、14世紀末のチャム氏との熾烈な戦いは陳朝を疲弊させた。1400年には権力は宮廷の高官だった胡季犛(ホー・クィ・リ)に簒奪された。ホー・クィ・リは、胡(1400-1407)を築き城西(タイド)、現在のタインホアに遷都した。国名は大虞とした。しかし1407年、陳朝復興を助けるという名目で明が暴力的に介入し、1427年まで旧タンロンからその支配が続いた。
それから黎利(レ・ロイ)が反乱軍を率いて権力の座に上る。レ・ロイは 後黎 (1428-1788)を築き、都をタンロンに戻す。この王朝は儒教的価値を重んじ、仏教界、行政、刑法、土地制度を改革した。人口増加と耕作地の不足が拡張政策を取らせた。1471年にはチャム氏との間に最終戦争が起こり、チャムの都のヴィジャヤが壊滅した。虐殺がチャンパ王国の息の根を止め、生き残った者は散り散りになって小さな共同体にまとまって現在にいたるまでベトナムに同化することを拒否している。