漢が滅びた後は政治的に大混乱の時代が続く。中国北部には漢民族でない場合が多い王朝が続々と立つが、仏教を奨励した。北魏(386-534年)は雲岡石窟、龍門石窟を作った。

漢王朝の崩壊で、中国は大きな政治的混乱期に入り、それが中断されたのは西晋(265-317年)により再統一された僅かな期間だけだった。結局は西晋も、黄河流域の肥沃な土地を求めて新たに侵入して来る遊牧の民に抵抗できなかった。中国北部ではこうして16の短命な王朝が興っては滅びた。そのなかで、北魏が新しい都を平城、現在の大同(だいどう)の近くに定めた。匈奴の度重なる侵略の前に、漢民族の王朝は屈して南に落ちる。そこでは、新しい都を現在の南京(なんきん)に定め、そこで代々の皇帝は洗練された朝廷を開き、画家や詩人、書家を保護する。画家には顧愷之(こ がいし、345-411)、書家には中国書道の父と言われる書家、王羲之(おう ぎし 307- 365)がいる。 風景画家、王微,(おうび 415-443)は、残念ながら作品が残っていないが、風景画の基礎を築いた。

北方では、インド起源で紀元1世紀ごろ中国に入った仏教が、平等主義なものの考え方と動乱期にあって心の平安を与える人間主義のおかげで異民族王朝に認められて行った。仏教は絹の道を通って伝えられた。沿道の族長たちと僧たちは僧院を築いた。ホータントルファン、中国の入り口となる敦煌、そして麥積山石窟(甘粛省)である。北魏(386-534年)は、最初は仏教に対して慎重だったが、国教と認めると、宗教的なイコノグラフィーの彫刻と絵を据えた巨大な石窟寺院の建造を行う。最初の石窟壁画は、魏の統治者が描かせたもので、雲崗にある。工事は460年ごろ始まった。石窟は穴を穿たれ、何千体もの丸彫りや浮彫りの仏像が作られ、それは魏が都を洛陽にうつす494年まで続いた。遷都の翌年からは、奉納物の形で新しい石窟が、洛陽の近く、龍門で作られ始める。雲崗の彫刻はインド芸術を引き継ぎ、ふくよかでどっしりとしていたが、今度は直線的で尖った形になる。頂点に達した精神性の反映だ。この場所には続く何王朝もの間、8世紀まで宗教彫刻が増え続ける。