宋(960-1279年)の時代は技術と交易の前例のない飛躍的発展が見られた。1129年に杭州で金に屈した後、宋はモンゴル族によって一掃され、モンゴル族が元朝(1279-1368年)を建てる。

宋朝

唐が滅びると、中国は新たな分裂の時代に入る(五代、907-960年)。宋朝が国土の大半を統一することに成功する。宋は2つの時期に分かれる。北宋(960-1126年)と、それを継ぐ南宋(1127-1279年)である。

この時代は、海上商業の発展に助けられて、国内的にも国際的にも、技術と交易が前例のない発展を見る。初めて、商業税と国の専売(塩、茶、酒および絹)による利益が国家予算の半分以上を占め、地税からの歳入を上回った。このような発展のおかげで、通貨と珍しい文物を定期的に送ることにより、北の「蛮族」国家の野心を鎮めることができた。

軍隊は兵士を百万人数えるが、文民統制が行き届いていた。科挙試験で集められる管理たちは儒教を復興させる。古代と歴史を好む趣味、風景画の発達、殆どの地方で陶磁器が発達し種類が豊富になり完成度も高くなるなどが、文人階級を背景とした知的芸術的生活の支配的な性格だった。

芸術愛好家だったが、限度をわきまえない浪費家の宮廷人に囲まれた、輝かしいが政治的には破滅的だった徽宗の治世(1101-1125年)は、「蛮族」女真族の帝国、金により、都、汴梁(ビャンリャン) 今日の開封(カイフォン) (河南省)を破壊される。宮廷は揚子江下流に避難する。紙幣の使用による浙江(チョーチャン)の都市の発展、特に杭州(ハンチョウ)の繁栄は農村部とは対象的である。

女真族は最終的に1234年に北中国を制し、南宋の権力は1279年に終りを告げる。

元朝

1279年に、クビライ(在位1260-1294年)、ジンギスカン(1167-1227年)が始めた征服を完成し、中国を巨大なモンゴル帝国に併合する。モンゴルの伸張は中国とイスラム世界、そしてキリスト教のヨーロッパとの間の接触と交易の新しい発展を告げる。

この時代の芸術は権力の座にあった中国人の文人たちの対極の性格を記している。陶磁器においては、地方の作業場は宋の伝統を再生産していたが、江西省の景徳鎮窯では注目すべき発展を遂げる。